小森はるか/瀬尾なつみは、東北各地へ足を運び、いろんな方々にお話を聞いてまわっています。
2011年7月18日から19日にかけて東北を訪れました。
今回で3回目になります。大学院の同級生、野口健吾さんも一緒に行きました。
そこで聞いたお話をまとめ、blogで伝えていきたいと思います。
今、東北の人たちの声を多くの方に知って頂けたらと思って活動しています。
2011年7月18日から19日にかけて東北を訪れました。
今回で3回目になります。大学院の同級生、野口健吾さんも一緒に行きました。
そこで聞いたお話をまとめ、blogで伝えていきたいと思います。
今、東北の人たちの声を多くの方に知って頂けたらと思って活動しています。
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ここでは瀬尾なつみ(@seonatsumi)が道中、そして帰宅後ににつぶやいていた、tweetをまとめました。ブログでまとめられた報告とはまた違った状況を伝えられたらと思います。
7月18日のtweet
東京→宮城県名取市閖上小→北釜集会場
東京→宮城県名取市閖上小→北釜集会場
●閖上小学校の体育館には自衛隊や解体の業者さんが集めてきてくれたアルバムや賞状、ランドセル、位牌などが建物いっぱいにありました。ボランティアはせっせとそれらを水で洗い、分類します。体育館いっぱいの、誰かのものたち。
●知らない誰かの子供が産まれて、立った喋った、初めての運動会、学芸会、卒業、制服、結婚式、子供が産まれて育って初孫、お葬式。知らない誰かが嬉しそう に写真に写ってる。私にとって誰かでも、誰かにとっては大切なあの人の写真かもしれない。誰か、にしか分からない価値がきっと存在する。
●閖上は7000人余りの人口の町で、そのうち、1000人がなくなったそうです。いまは2000人が町に残り、4000人は仙台市内や、または日本中に引っ越していったと伺いました。
●夕方には北釜の集会所。ここも閖上小と同じように様々な誰かのものが集まって来ている。天井まで波が来た集会所には、倒壊の恐れが有、地震が来たらすぐ逃 げてと張り紙。仮設から村を見に来たというお爺さんは、集まるため探しにくる為の場所は、村が元からあったここが良いここしかないと仰いました。
●おじいさんは、産まれてから79年ずっと暮らしてきた村がたくさんの物を失ったけど、僕は生きてるんだから、生きてかにゃいかんねえ。と仰った。
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●きょうは岩手県山田町まで北上、荒神浜という美しい浜で漁師さんたちにお話を伺がいました。その後釜石、大船渡、陸前高田へ。陸前高田では三月、五月にも お世話になったおばちゃんのお家へ。周りにお店がなくなってしまったからと自給自足で野菜を育てていらっしゃった。詳しい事はまた明日書きます。
●きのうは早朝から移動し釜石に行きました。休日という事もあってか、港には人が全くいませんでした。海辺の工場は鉄骨が柔らかく見えるほどぐにゃぐにゃ で、足下には海から運ばれて積もった砂に雑草がたくさん生えていました。景色が緑色に変わって、変わる気持ちもたくさんあるだろうと思いました。
●津波で被災したと思われる駅前の魚市場が再開していました。観光客はあまり見かけなかったけど、地元の方がお中元を買いに来ていたりしました。その建物の 二階は、レストランと安否確認所でした。掲示板には複数の人探しの張り紙がありました。このひとを見かけたらここの避難所まで連絡をください。
●季節が変わって、町があった場所がまるで更地のようになって、雑草が生い茂って、緑色の景色になっています。ここになにがあったのか、誰がいたのか、何が起きたのか、この場所に住んだ事のない私には想像する事がとても難しくなって来たと感じました。
●数十キロ北上、去年ここを訪れたという友人と陸中山田駅。駅があった場所にはかろうじてホームが判別出来るくらいで、駅前のターミナルやスーパーはありませんでした。津波の際に火災が起きて、一本残った駅前の樹も真っ黒でした。
●この樹の周りでタクシーがぐるりと旋回してね、人待ちをする列をつくるんだよ。と友人が話していたら遠くからタクシーがやって来て、樹の周りを旋回して駅 前に停まりました。しばらく見ているとその後にも二台のタクシーが現れた。彼らはどこの駅前にもあるように最近どうだい、と会話をはじめました。
●お客さんを待っているのか、彼らの待ち合わせなのかは分かりませんでしたが、そこは彼らにとって、確かに陸中山田の駅なんだなと思いました。駅舎やロータリーがなくなってしまっても、ここはここなんだと思いました。
●移動して田の浜地区荒神浜へ。浜辺には沢山の漁師さん達がいらっしゃって、なぎ倒された木などを解体して燃やしていました。俺たちは職を失ったから、国か ら1日1万2千円の補助をもらって瓦礫撤去の仕事をしている。この集落は家が1つも残らなかった、仲間も半分は死んだな、とおっしゃいました。
●はじめて訪ねた荒神浜はとにかく澄んでいてエメラルドグリーンで、すごくきれいでした。そこで漁師さん達が静かに海を見ながら瓦礫を燃やしていた。全員仮 設に住んでんだよ、まいっちゃうねえ。私達に冗談まじりで色んな話をしてくれて、今度は泳ぎに来てな、きれいにして待ってるからさと別れました。
●遅くなってしまいましたが、午後のツイートの続きをかきます。昨日の夕方には陸前高田に行きました。
●陸前高田の市街地は地盤が沈下していて、海と陸地が同じ高さにありました。市街地に住んでいた方達は高台の避難所や仮設に移っているとのこと。壊れてし まった物達を移動する作業車が沢山いて、広い空き地を作っていた。この場所をこれからどうするんだろう。難しい問題や選択が沢山あるのでしょう。
●ボランティアセンターの方にお話を伺う。陸前高田VCを立ち上げたのは鳥取の社会福祉協議会の方。町の特性、そこに住む人の事を一番に考えている。これ以 上高田の町で誰かが怪我をしたり悲しい目に遭わないようにすることがまず、住民の希望。そのための準備のため立ち上げが4月半ばになった。
●元々人の出入りが多くない町に、ボランティアが急に入って来たらびっくりされる方も多い。まずはボランティアと町の人を繋げる土壌を作らなきゃならない。 ボランティアはこういう人がいて、こういう仕事をしてくれるんです。その紹介のためにまず、共有の畑の片付けにボランティアを投入しました。
●その様子を見た町の人が、あの、こういうのも手伝ってくれる?と声を上げ始めた。ボランティアしたいという人の気持ちと、助けてもらっていいのかしら、あ りがとうという町の人の気持ちを繋げる媒体として、作業がある、とのこと。高田の町が人と人が繋がる場所になることが大切なのかもしれない。
●時間はかかったけれど、今はいい状態で運営出来ています。目下の課題は冬までボランティアが継続的に来てくれるようにすること、との事。これからもどこか でまた災害は必ず起きます。その時に今回の事が個人の中に経験として残って、その気持ちが適切に届くようになってほしいとおっしゃっていました。
●4月、5月と伺ったおばちゃんのお家へ。あらー急にまた現れて!とおばちゃん。周りにお店がなくなっちゃったから自給自足してるのよ。とうもろこしモロヘ イヤきゅうりブルーベリー林檎トマトお米、、。塩をかぶっちゃった土にはひまわりがいいんだって。ひまわりがあちこちに芽を出していました。
●あちこちでひまわりを植えているという話を聞きました。この夏は、東北が黄色いひまわりでいっぱいになるかもしれません。
●夏という季節が、少しずつ人を元気にしているような印象がありました。流されたお家にも出来てしまった空き地にも、緑色が映えていました。津波が来た境界線も、分からない場所が増えて来ていました。
●これからこの場所がどうなっていくのか、人がどこに暮らすのか、変えていく事と変えちゃいけない事と、覚えておかなければいけない事と忘れなければいけな い事と、時間をかけて分かっていくんじゃないかなと思います。その時に、何か手伝える事があったら手伝いたいと思っています。
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